ゲイプライドパレードとマイノリティ

先々週の日曜日、ゲイプライドパレードに行った。

英会話の先生が教えてくれたのだ
まったく興味がないという先輩に「文化だよ!文化を知ろうぜ!」と言って連れ出して、一緒に向かった。
 
ユニオンスクエアやワシントンパーク付近が、観光客があまりいない穴場だと聞いたので、そこへ向かう。
行くまでに、いくつか七色の旗を見かける。LGBT、つまりセクシャルマイノリティの社会運動の色を象徴するらしい。
(Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイ、Tはトランスジェンダー
 
ゲイパレートについての説明を引用しておく。(引用元:コトバンク
アメリカニューヨーク開催される同性愛者のパレード。ゲイへの差別をなくし平等権利連帯を訴えるイベントで、華やかな衣装グループハーレーダビッドソンに乗ったグループなど、さまざまな衣装でパレードを行う。アメリカだけではなく世界中からゲイが集まり、5番街をはじめ、目抜き通りを練り歩く。ゲイパレードは世界各国行われるが、ニューヨークは発祥の地であり、規模も大きい。開催は6月の最終日曜日。1969年から続いている。
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到着すると、歩道にかなりのひとが押し寄せていて、なかなか車道を練り歩くひとたちが見にくかったけど、リズミカルな低音から突き上げるような音楽が大音量で流れていた。
 
バスのような、トラックのような車の上から手を振って、踊る、たくさんの男女。
その中にはドラァグクィーンみたいな、濃い化粧の女装のひともいるけど、そうじゃないひともたくさんいる。
旗を持って演舞するひともいたり、ダンスしながら通る人もいたり、ひとつの集団が通るごとに、歓声が湧き上がる。
観客もリズムにのって踊り出す。
観客にも、七色の服を身につけたり、奇抜な格好の人がいる。
(先生からはトップレスのおねーさんがいるから、そういうときは旦那の目をさっと隠しなさい、と言われてたが会わなかった)
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なんだか歩く人々にも、踊る人々にも、観客にも、肯定感を感じて、すごくいいなとおもった。
 
あと音楽は、自分の中の火種をあおるというか、そういう役割を果たしている気がした。
 
☆ ☆ ☆
 
ここから、思ったことを長く長く書く。
 
帰りがけの先輩の一言で、ああ女装のひとをいわゆる「オカマ」のひとだけをゲイだと思ってるんだ、と気づいた。
(本当に興味がなくて知らない)
知らない人は知らないんだ。
わたしも知らないこと沢山あるけど、先輩より知ってる。
たぶん、ひとよりちょっと詳しい方だ。
 
ゲイって男が男を好きになることを言うだけであって、男のままの自分で男を好きになるひとは沢山いる。
女装をしたりするひとだって、自分を女だと認識しているからだというひともいれば、自分を男だと認識していて女性を好きになるけれども、格好としては女装がいいというひとだっている。
男性女性どっちも好きになる、バイと呼ばれるひとだっている。
なんかもっと色々ある。
すごく、人それぞれなんだ。
 
そういうの、小学校のうちに教えないのかな、と帰り道でふとおもった。
保健体育とかで。
性のことって、わりと自分の中心とむすびついてる気がする。自己認識、自己肯定に関わることだ。
自分だけの形っていうのが、まだふやふやしているけどあって、それは時間をかけてわかっていくものなんだと思うんだけど、それはあっけなく他者の言葉や行動によって、バリバリバリーン!と音を立てて壊されてしまいうるものなんだとおもう。
マイノリティのひとは、当たり前ができるひとより、ずっと強くあることを求められてる、多分。当然のように。
当事者のためというだけじゃなくて、当事者のまわりのひとのためにも、教育って必要なんじゃないだろか。
違うことは、おかしいことじゃないんだよって。
だって育て方とかの問題じゃないんだ。教えたら増えてしまうとか、教えないでいたらいわゆる「普通」になるとかじゃない。
ただそれが、そのひとにとっての自然なだけ。
きっかけがあるひともいる。でも、そのきっかけだって起こることを選べない。
どう生まれても、どう生きても、好きになるのが同性のひとはいるし、自分を生まれたままの性別に思えない人もいる。
揺らぎがあるひともいる。最初からはっきりとわかるひともいれば、長い時間をかけて自分のことをわかっていくひとだっている。
そういう人はいないのだとおもっている人には、他人が自分と同じであることが「当たり前」に感じられて、無意識に悪気なく差別をしてしまうことだってあるとおもう。
(わかってて差別をするひとも、もちろんいるけど…)
 
セクシャルマイノリティがどうとかいう話でなくて、マイノリティって誰だってなりうることな気がしている。
例が的外れかもしれないけど、自分が「ロリコン」で少女しか愛せないとする。「血」が好きだとする。「恋ができない」とする。「事故で足を失った」とする。「就職がうまくいかなかった」とか。
もっとささいな、だけど本人には大事なことも沢山あると思う。
皆ができる(だろうと思ってる)ことができない場合、孤独感や疎外感、痛みや憎しみを感じたり、知られることを恥じたり、自分を恥ずかしくおもったりする…こともあるだろう。
それぞれの性質をもったひとたちは、それと一緒に生きていく。
自分と縁を切るには死ぬしかない。
でも死なないで欲しい、死にたくない。
生きていく方を選べるように。
そうだったときに、どう社会とすり合わせてくかだって思うから、そのひと自身の強さだけにたくすんじゃなくて、社会には肯定的であってほしいとおもう。
(制度もあるけど、社会の一員としての自分がまず大事とおもう)
 
※例が例なので、注釈。犯罪はアカン。他者を傷つける権利は誰にもない。でも、きっと犯罪に関わりうる性質を持った人は、すり合わせることがより難しいだろう…とおもう…
 
マイノリティのひとが、ちょっとでも息苦しくない世界になればいい。
そしてそれは特殊な「何か」に限らない、応用しうる何かであるべきなんだとおもう。
まだ知られてない無限のマイノリティがきっとあるから。
 
☆ ☆ ☆
 
最後に自分に立ち戻る。
実際どうすんのかと言われたら、自分だった場合と相手だった場合を考える。
(考えてたって、多分傷つけるときは傷つけてるとおもうけど…)
「当たり前じゃないかもしれない!」とおもうことと、「その人を見るのだ!」ということと、「秘密は秘密に!(そして話してくれてありがとう)」ということと、「理解できなくても、存在肯定はできるとおもう」こと…とか。
ただ「その上で、好き嫌いとか、自分の意見があってもいいとおもう」とも。なんか感覚的なものはある気がして、適正距離もある気がする。そこからは自分の問題な気がするので。(どこまでがそのひとの問題で、どこからが自分の問題なのかは分けるべきとおもう)
あ、これは全部セクシャルマイノリティについてじゃなくて、全般についてです!
なんか色々考えすぎてややこしくなってるかもだが。
たぶん、ひとりの人がすべてを受け入れられないのも本当だ。
でも、だから人間はいっぱいいて、そしてひとりひとり違うんだとおもう。
 
これは全部「いまのわたし」の「考え中」のこと。