小学生と気迷いゴト

4コマ以外の絵も描いてみる。
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「ちょっと。ぼく暇人じゃないんで、じゃましないでくれます?」の瞬間。

椰月美智子さんの「静かな日々」や「十二歳」を読んだら、(どちらも小学生が主人公の話。ストーリーというより、鮮やかで大切なあの頃の記憶みたいな話)、子どものころのことをすごく思い出した。ぶわーっと。

夏休み。団地。泥だんご。水風船。秘密基地。小川。つぶれたランドセル。ずぶ濡れの犬。
あれだね、具体的なものが浮かぶようだ。小物というか。

中学、高校、大学、社会人、も、そういう風に思い返したことなかったけど、できるのかな。

☆ ☆ ☆

余談なような、今考えていることにもつながるようなこと。
絵を描くのは昔から好きでとても楽しい。
だけど、絵を描くと自分のできないことがわかる。
できないことをできるようになるための時間を割いてない自分に気づく。
背景もかけるようになりたい、体のパースわかりたい、色んな角度から描けるようになりたい、でもその耐え性がない。
それができるひととの差が、どんどんついていく。
やらずにいられないひとなのか、やることをコントロールしているひとなのか、どちらもいるとおもう。
きっと、これはなんでもそう。

わたしはいろいろ好きだけど、すごく深く踏み入るには、好きだけじゃなくて、積んでかなきゃ踏み入れない場所があって、そこにはとても時間を大切にしてきたひとしかいけない気がする。
今の自分はそうしたいという気持ちばかりで、小さな行動を重ねて深く一歩踏み入るよりも、あちこちをチラチラよそ見して、これでちゃんといけるのか、とか考えたりして、気が散ったまま向かい合って、なんかとてもいろいろなことが浅いところをうろうろしている。

わたしが深く踏み入りたいのは、物語をかくことなんだけど。
わたしが「どうかくか」のレベルまで行ってなくて、「何かくか」で、わかんなくなっちゃってるせいもある。
(たぶん、これがふつうだけど。でも。)
「どうかくか」は、伝えるための努力。
「何かくか」は、選択…?な気がする。
たぶん自分の人生を土台に、選ぶんだ。それが無意識にしろ、意識的にしろ。
そして、選ぶことも、積んでくことも、ド級に苦手なわたし。

「何」をどうやって自分の中から出してきたらいいのか、また出てきたちっさい「何」を形にする時間に使うべきか、もっと重要な「何」を出すべく模索すべきか、そもそも重要ってなんなんだ。
迷いが吹き飛ぶほどの間違いない感覚なんて、来ないのかもしれない。
なら不確かなそれを選ぶときは、何を頼りにすればいいのか。
(4コマだとなぜ書けるのか。それは1コマ目を適当に描いているから。「何」について迷う前に描いているから。
ブログならなぜ書けるのか。それは「何」が実際に起こったことだから)

でも、思うんす。深く考えれば考えるほど、頭に支配されてくるって。
そうして、「何を書くか」に必要なのは、頭じゃないのだって。

わからなくて全然できないから、余計にできるようになりたくて、夏。
まとまらないまま、終わる。