選ぶ

今日、図書館英会話のトピックが政治の仕組みや、代表者の選出方法みたいなのだったんだが、すごい質問と議論が一部で起きて(ちなみに全然わからなかった…)、先生がそれを受けて自分の意見を言ってて、この人らにとっての学校はずっとこんな感じだったんだろうなと思った。

もしこれが当たり前の環境で生きていたら、わたしはどんな感じになっていたんだろうとも。

 
「この二人の意見をそれぞれ比較して、自分ならどちらに投票するか、またその理由は何か」と言う問題があって、わたしは答えが出せなくてかなり長い間迷ってしまった…ただの問題でさえ選ぶのが苦手なのだ。
でも、ふと、『これやられたらやばいと思う意見を持ってるひとを選ばない』を最優先で、次に『これは絶対やってほしい!と思う意見を持ってるひとを選ぶ』ことにした。
きっかけは、この2つの意見どっちがいいんだろう…ってうんうんしながら見ていた意見が実はどっちでもいいんじゃないかと思ったからだ。
こっちの方がちょっといいとかあったけど、大した差ではないと思ったら、選ぶことが少し楽になった。
細部を見すぎるとわかんなくなっちゃうんだ。
絶対これやって!という意見を優先する人もいるかもだけど、大きなマイナスになりうるほうが取り返しがつかない気がするから、とりあえずこれで。
でも絶対やばいがないパターンの方が多いかな…
 
ここまで書いて、選び方こそが自分の意見なのかとふと思う。
何を絶対やばいとするか、絶対いいとするか、どうでもいいとするか、も自分の意見だけど。
結果だけが自分の意見でなく。
だって絶対いいを優先させたら、意見自体は変わらないまま、まるで違う人を選ぶことにもなりうるんだ。
 
それに思いいたってから、色々と選ぶことに対するエピソードを思い出す。
 
1年前に参加した講演会で、すごい独特な教え方をしている小学校の先生が、「普通の学校から転校してきたばかりの子がよく聞くことがあって、『解き方だけ教えてよ!そしたらあとは自分で解いて答えだすから』というのがあるんですけど、解き方を考えることが一番大事なのにねえ…って思うんです」
って言った時、わりと目から鱗というか、自分のあまりにも解き方求めっぷりを振り返ってショックを受けたこと。
 
チェルシーという場所では無料の個展が数多く見られるんだが、ギャラリー見てて、最近小説読んでて感じたことと同じことおもったこと。つまり、これ、同じジャンル(アート、小説)なのに全然ちげー!ということ。こんなにも違うなら、作り方ももちろん違うだろう。料理にはレシピがあるのに…と考えて、そうか料理のレシピは同じものをつくるためにあるんだときづいたこと。
 
それを選ぶかどうかの基準に、経験になるとか、お金がかからないとか、周りに波風たたせないとか、いいものばかりだったとしても、「自分の心の中の大事にしたい何かが失われる」選択ほど、重いものはないと思ったこと。
それを選んでしまった場合、外からは分からなくても、長い期間、力と心を奪われるし、自分のことが少し嫌いになったり、胸が張れなくなるということ。猫背だから張ってないけど。
(でもその事実がありながらも、時にはそれよりも大事にするものがあることだってあると思う)
 
最近、「みをつくし料理帖」という江戸時代を舞台にした料理ものの小説にはまっていたんだけれど、その中の「心星ひとつ」という話の中で、主人公澪が迷いの最中にあるとき、
「悩み、迷い、思考が堂々巡りしている時でも、きっと自身の中には揺るぎないものが潜んでいるはずです。これだけは、譲れないというものが。それこそが、そのひとの生きる標となる心星でしょう」
とある人が言ってくれて、その後澪は自分の心星を見つけることになる…んだけど、それが失うものもまためっちゃでかいということ…(ベッドで読んでいて思わず、ウオーイ!と本を投げるほど…)
選ぶということは、選ばないということでもあるということ。
でも選ばなかったら、もっと大事なものを失っていただろうということ。
澪っちに全米が泣いた
それでも、 ずっと、澪は心星を大事に生きていく。失った痛みを胸に、自分の選んだ道を活かしていく方法を考え続ける。
 
いろいろ書いて何が言いたいのかというと、どこかに存在する正しい答えを選んだかどうかよりも(そして選べないアホな自分を恥じるよりも)、答を出す過程で自分が何を大事にしたいのかを知るということが、そして実際大事にするということが、選ぶ問題の要点なんじゃないだろうか。
あとわたしが日々どっちにすべきかうんうん悩んでる問題の多くは、どっち選んでも大した差がないやつなんじゃないだろうか。
ということ。(後者の方が、実は日常生活においてでかいかもしれない…)